
真夏の夜、街角に漂う紙銭の煙。赤く燃え上がる炎の向こうで、幽玄なメロディーが響き渡る――。ここは、シンガポール。旧暦7月、街は“あの世”と“この世”が交わる時を迎えます。
華やかな近代都市シンガポールが、この時期にだけ見せる、独特の顔。それは、「中元節(ちゅうげんせつ)」、通称「Hungry Ghost Festival(ハンガリーゴーストフェスティバル)」と呼ばれる、祖先や無縁仏を供養する祭典です。
特に賑やかな歌や踊りが繰り広げられる「歌台(ゲタイ)」は、シンガポールの中元節を象徴するエンターテイメントとして、多くの人々を魅了します。
この記事では、シンガポールの中元節の背景から、その過ごし方、そしてこの神秘的な祭事を体験する旅行者へのヒントまで、詳しくご紹介いたします。
2025年、2026年、2027年のシンガポール「中元節」開催日
シンガポールの中元節は、旧暦の7月15日が中心となります。この日を含む旧暦の7月全体が「鬼月(ゴーストマンス)」と称され、地獄の門が開き、この世をさまよう霊たち(供養されず飢えに苦しむ霊、餓鬼)が現れると信じられています。
新暦では毎年日付が変動いたしますので、ご旅行の計画の際は以下の日程をご参照ください。
- 2025年8月7日(木)
- 2026年8月25日(火)
- 2027年8月15日(日)
シンガポールの中元節は、国民の祝日には指定されていませんが、主に華人系の住民の間で広く行われる重要な伝統行事です。特にチャイナタウンや住宅地(HDB)の周辺では、この期間中に様々な供養行事やイベントが開催され、街全体が独特の雰囲気に包まれます。
シンガポール「中元節」:賑やかな「歌台(ゲタイ)」と供養の文化
シンガポールの中元節は、単にご先祖様への感謝を捧げるだけでなく、「餓鬼(がき)」と呼ばれる、供養されず飢えに苦しむ霊たちをも手厚く供養し、心を慰めるという側面が非常に色濃く表れます。これは、彼らが人々に災いをもたらすことのないよう、慈悲の心をもって手厚くもてなす、という信仰に基づいています。
この期間中、シンガポールの街のいたるところで、以下のような光景が日常的に繰り広げられます。
1. 街角の供物と冥銭(紙銭)を燃やす儀式
シンガポールの街を歩くと、商店の軒先や住宅の入り口、HDB(公共団地)の共同スペースなど、様々な場所に簡易的でありながらも心を込めた祭壇が設けられます。そこには、新鮮な果物、お菓子、飲料、焼き物などが並べられ、線香が静かに香りを放っています。
この祭事を特徴づけるのは、あの世で霊たちが金銭に困らないようにと願って、冥銭(めいせん/紙銭)と呼ばれる紙製のお金や、紙製の家、車、宝石といった品々を、専用の金属製のバケツや簡易的な炉で丁寧に燃やす光景です。冥銭には、「金紙(金色:神様用)」と「銀紙(銀色:祖先や霊用)」という2種類があり、用途によって使い分けられます。立ち上る煙と燃え盛る炎は、「中元節」の期間中、シンガポールの街に漂う象徴的な風景となります。

2. 「歌台(ゲタイ)」に沸くストリートエンターテイメント
シンガポールの中元節で最も目を引くのは、なんといっても「歌台(ゲタイ)」と呼ばれる屋外での歌謡ショーです。特設されたステージでは、歌手やコメディアンが派手な衣装に身を包み、中国語の歌謡曲(特に福建語や広東語の歌が多い)や漫才などを披露します。
歌台(ゲタイ)は夜に開催されることが多く、ネオンライトに彩られたステージと派手な衣装、ハイテンションな歌唱パフォーマンスが特徴です。YouTubeなどで「Getai Singapore」で検索すると雰囲気をつかめます。これらのショーは、霊たちを楽しませるためのものとされており、最前列の席は「“霊たち専用”の特等席とされ、誰も座ってはいけないとされています」。誤って座ってしまわないよう、注意が必要です。歌台は、地域のコミュニティセンターや空き地、あるいは公園などで開催され、誰でも自由に観覧できます。

3. 様々なタブーと注意点
シンガポールでも、中元節の期間中には、霊を刺激したり、不運を引き寄せたりしないための様々な迷信やタブーが存在します。旅行者の方々も、これらの習慣を少し意識するだけで、よりスムーズに、そして敬意をもってこの祭事を体験できるでしょう。
- 道端のお供え物を踏んだり蹴ったりしない:足元に気をつけ、うっかり供物に触れないよう配慮しましょう。
- 夜遅くまでの外出を控える:特に水辺(川や海)への接近は、霊に引きずり込まれるという迷信があるため、避けるのが賢明です。
- 夜間に洗濯物を外に干さない:霊が干された服をまとって家に侵入すると信じられています。
- 壁沿いを歩かない:霊が壁に寄り添って休んでいると信じられているため、避けるのが良いとされます。
- 道に落ちているお金を拾わない:霊の持ち物とされ、不運を招くと信じられます。

日本の「お中元」とアジアの「中元節」:その違いと興味深い共通点
日本で夏の風物詩として親しまれる「お中元」と、シンガポールをはじめとするアジア各地で盛大に祝われる「中元節」。同じ「中元」という言葉が使われるため、一見すると同じような行事に思われるかもしれませんが、その意味合いや習慣には、文化的な背景からくる大きな違いがあります。同時に、その根底には興味深い共通点も見出すことができます。
「中元」のルーツは道教の「三元」思想
まず、日本の「お中元」も、シンガポールの「中元節」も、その起源は古代中国の道教(どうきょう)にあります。道教には、一年に三度、神々が人々の罪を赦すという「三元」の思想があります。
- 上元(じょうげん/旧暦1月15日):天官(てんかん)が人々に福を与える日
- 中元(ちゅうげん/旧暦7月15日):地官(ちかん)が人々の罪を赦す日
- 下元(かげん/旧暦10月15日):水官(すいかん)が人々の厄を祓う日
このうち、「中元」が、地官が地獄の門を開き、罪を犯した人々や餓鬼を赦す日とされたことが、ご先祖様やさまよえる霊を供養する行事へと発展していきました。
日本の「お中元」:感謝と贈答の習慣
日本の「お中元」は、主に日頃お世話になっている方々への感謝の気持ちを込めて贈り物をする贈答の習慣として定着しています。夏の時期に、親戚や仕事関係者などに贈り物をします。
- 主な意味合い:感謝、お礼、親睦。
- 対象:生きている人(特にお世話になっている人)。
- 主な行為:贈り物をする。
- 宗教性:現代では非常に薄く、商業的な側面が強い。
シンガポールの「中元節」:供養と慈悲の祭り
一方、シンガポールにおける「中元節」は、道教の旧暦7月15日という日付と「地官赦罪」の思想を強く受け継いでいます。この期間は「鬼月(ゴーストマンス)」と呼ばれ、地獄の門が開き、供養されず飢えに苦しむ霊(餓鬼)がこの世に解き放たれると信じられています。
そのため、この祭りの中心となるのは、ご先祖様だけでなく、見知らぬ無縁仏や餓鬼たちをも手厚く供養し、災いをもたらさないよう手厚くもてなすという点です。街中に盛大なお供え物が並び、冥銭が燃やされ、そして「歌台(ゲタイ)」と呼ばれる賑やかなショーが開催されるのは、この「地官赦罪」と「餓鬼の慰撫」という、より深い宗教的意味合いに基づいています。
他のアジア地域(香港・台湾・中国本土)との比較
シンガポールの「中元節」は、台湾のそれと非常に似ており、大規模な供養、冥銭の燃焼、「歌台(ゲタイ)」の開催など、道教色が強く、その賑やかさも共通しています。
しかし、香港の「中元節」は「盂蘭勝會(ユーランシングウイ)」と呼ばれ、仏教の「盂蘭盆会」の影響がより強く、地域コミュニティが主催する大規模な仮設劇場「戲棚(ヘイプン)」で広東オペラなどの伝統劇「神功戲(サンコンヘイ)」が上演される点が特徴です。
また、中国本土の「中元節」は、そのルーツではあるものの、過去の文化大革命などの歴史的経緯や社会主義体制、急速な都市化の影響により、シンガポールや香港、台湾で見られるような公共の場での大規模な伝統芸能の開催は控えめであり、より私的な供養が中心となる傾向が見られます。
このように、「中元」という共通のルーツを持ちながらも、アジアの各地域ではその発展の仕方が大きく異なり、それぞれの文化や信仰が色濃く反映されているのです。
シンガポール「中元節」体験:旅のヒント&アイデア
シンガポールの中元節は、単なる伝統行事の枠を超え、現地の文化や人々の深い信仰心に触れることのできる貴重な機会です。この時期にシンガポールを訪れる際は、ぜひ以下のヒントを参考に、特別な体験をしてみましょう。
- 街の息吹を感じる散策:チャイナタウンや各HDB(公共団地)エリアの商店街、住宅街などを歩き、人々がお供え物をしたり、冥銭を燃やしたりする日常の光景を注意深く観察してみましょう。特に夕方以降は、その雰囲気が一層濃くなります。
- 「歌台(ゲタイ)」の雰囲気に浸る:街のあちこちで開催される「歌台」を見つけたら、少し離れた場所からでもその独特のエネルギーと華やかさを感じてみてください。ただし、最前列の「霊専用席」には決して座らないようご注意を。
- 壮大な寺院を訪ねる:中元節の期間中、多くの道教寺院や仏教寺院では、特別な供養の儀式が執り行われます。普段とは異なる厳かで神秘的な雰囲気を体験できるかもしれません。仏牙寺龍華院や光明山普覚禅寺などが有名です。
- 現地のマナーを尊重する:中元節は、シンガポールにとって非常に神聖な行事です。供物や儀式に対しては常に敬意を払い、写真撮影の際は必ず人々の感情やプライバシーに配慮することを忘れないようにしましょう。
仏牙寺龍華院(Buddha Tooth Relic Temple and Museum)の基本情報
チャイナタウンに位置する仏牙寺龍華院(ぶつげじりゅうかいん)は、その壮麗な建築と釈迦の歯とされる仏牙舎利を安置していることで知られる仏教寺院です。中元節の期間中も、多くの参拝者が訪れます。
- 名称
- 日本語表記:仏牙寺龍華院(ぶつげじりゅうかいん)
- 英語表記:Buddha Tooth Relic Temple and Museum
- 現地の言葉による表記:佛牙寺龍華院 (Fóyá Sì Lónghuáyuan)
- 住所
- 288 South Bridge Rd, Singapore 058840
- アクセス
-
MRT:最寄駅「Maxwell MRT Station」 (TE18)、「Chinatown MRT Station」 (DT19/NE4)。市内中心部から約10〜20分。料金目安 S$0.92〜S$2.34程度。
配車アプリ:市内中心部から約5〜15分。Grabタクシー S$10〜S$20程度。 - 電話番号
- +65 6220 0220
- 開門時間
- 寺院:毎日 07:00~19:00
- 博物館:毎日 09:00~18:00
- ※特別な行事や祭事の際は開門時間が変更になる場合があります。
- 入場
- 無料
- 公式サイト
- Buddha Tooth Relic Temple and Museum
- Buddha Tooth Relic Temple and Museum 佛牙寺
仏牙寺龍華院(Buddha Tooth Relic Temple and Museum)の詳細地図
光明山普覚禅寺(Kong Meng San Phor Kark See Monastery)の基本情報
シンガポール最大級の仏教寺院である光明山普覚禅寺(こうみょうざんふかくぜんじ/Kong Meng San Phor Kark See Monastery)は、広大な敷地と荘厳な仏像、美しい庭園を持つ、シンガポール仏教の中心地です。中元節の期間中も、多くの信者が訪れ、厳かな供養や法会が執り行われます。都会の喧騒から離れ、静かで神聖な雰囲気に包まれたこの場所で、マカオの人々の信仰の深さに触れてみてください。
- 名称
- 日本語表記:光明山普覚禅寺(こうみょうざんふかくぜんじ)
- 英語表記:Kong Meng San Phor Kark See Monastery
- 現地の言葉による表記:光明山普覺禪寺 (Guāngmíngshān Pǔjué Chánsì)
- 住所
- 88 Bright Hill Rd, Singapore 574117
- アクセス
-
MRT:最寄駅「Bright Hill MRT Station」 (TE7)。市内中心部(オーチャードロード周辺)から約20〜30分。料金目安 S$0.92〜S$2.34程度。
バス:最寄りのバス停「Bright Hill Station Exit 1」。市内中心部から約30〜45分。料金目安 S$0.92〜S$2.00程度。
配車アプリ:市内中心部から約15〜25分。Grabタクシー S$15〜S$30程度。 - 電話番号
- +65 6849 5300
- 開門時間
- 毎日 06:00~21:00(一部施設やオフィスは異なる場合あり)
- ※特別な行事や祭事の際は開門時間が変更になる場合があります。
- 入場
- 無料
- 公式サイト
- Kong Meng San Phor Kark See Monastery
- Kong Meng San Phor Kark See Monastery
光明山普覚禅寺の詳細地図
「中元節(Hungry Ghost Festival)」の概要
- 名称
- 日本語表記:中元節(ちゅうげんせつ)
- 英語表記:Hungry Ghost Festival / Zhongyuan Festival
- 現地の言葉による表記:中元節 (Zhōngyuánjié) / 鬼月 (Guǐyuè)
- 入場
- 無料(儀式やイベントへの参加は自由です。「歌台(ゲタイ)」の公演など、座席が設けられることもありますが、基本的には自由にその雰囲気を体験できます)
- サイト
- シンガポール政府観光局(日本語)
- シンガポール政府観光局
- シンガポール政府観光局
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- YouTube
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よくある質問:Q&A
- Q. 写真を撮っても大丈夫?
A. 公共の場での撮影は可能ですが、儀式や供物に対しては敬意を持ち、距離を保ちましょう。特に、人物が写る場合は必ず許可を取るか、顔が特定できないように配慮しましょう。 - Q. 旅行者でもゲタイを楽しめる?
A. はい、ゲタイは一般公開されており、誰でも見学できます。ただし、ステージ最前列にある「“霊たち専用”の特等席」には決して座らないようご注意ください。これは現地の重要なマナーです。
シンガポールの「中元節」は、モダンな都市の顔とは対照的に、脈々と受け継がれる華人文化の深さ、そして祖先や霊への敬意を感じられる特別な時間です。この時期にシンガポールを訪れる際は、ぜひその活気ある供養の祭典と、そこに込められた人々の温かい信仰心を肌で感じてみてください。きっと忘れられない、ユニークな旅の思い出となることでしょう。